今年も去年に引き続き、思わず興奮で叫びたくなるライブ必須の豪華アーティストの方々に出演していただけることになり、すでにワクワクとドキドキ止まらない日々を過ごしているUWSTO.
当日をもっと楽しく、深く堪能していただけるよう、出演者の方々の旬なVoiceをお届けするJOSEスペシャルインタビュー企画PART7!!
本日は、JAPANESE HIPHOP界からどんなサウンドにも豊富なヴォキャブラリーとリズム感で独創的的でエッジ効いた世界作り上げてしまう日本ラップMC界のカリスマRINO LATINO llさん(以下RINO)にお話を伺います。
ーーーーー本日は、JOSEサルサの日にちなんでRINOさんとラテン・カリブというテーマでお話お聞かせください。2008年にキューバでLIVEをされてすごい評判だったんですよね。まずは行くことになった経緯を教えていただけますか?
RINO:中南米に行く前に、まずはブラジルに行ったんだよね。
人間のルーツじゃないけど、いろんなものがMIXされて新しいものができてくる感じに、
《そういう混ざり方なんだ》っていうのを発見した時に、面白いなって思って。
俺が最初HIPHOPを始めた時は、DJがすべての楽器を2つのターンテーブルで再現できるところに魅力があったんだけど、
最近はその機材がどんどん進化してきちゃって、ターンテーブルが楽器というよりは、オートマチックな感じというか、特にCDJなんか、ズレを勝手に向こうが補修してくれたりとかで、
そういう時代の中で少しづつ物足りなくなってきて、それから生音でやりたいってなって思うようになって。
ーーーーーそこからRINOさんのLIVEスタイルが生み出されていくわけですね。
RINO:*DJ YUZE、*JOSEIとかと出会って一緒にセッションするようになって、だんだんラテン音楽をやっているミュージシャンとかと繋がってきて。
そんな中、俺の後輩の両親がキューバ大使館で働いていた経緯で、文化担当の人紹介してもらって、なんか向こうのアーティストがきたら前座でもいいからやらせて欲しいって自分のCDを持って行って。
*DJ YUZE=ピアニストの両親のもとフランスで生まれ、日本に帰国後Skateboardを通じて90 年頃DJを始め、 スクラッチテクニックでヒップホップシーンを中心にその名を広める。
*JOSEI=丈青 日本を代表するJAZZ ピアニスト SOIL&”PIMP”SESSIONSメンバー
ーーーーーそれは、そもそも当時すでにキューバに興味があったのですか
RINO:まあ、タイミングがあったんだよね。
俺がそれまでメジャーでやってたレーベルと洋服屋を畳んだ年で、そこからあしかけ2年くらいでCUBAでのLIVEにたどり着くんだけど、
その2年くらいはキューバ大使に呼ばれたら、大使公邸でLIVEしたり、ある時はウクレレ1本持っていって、歌ともラップとも言えない感じでLIVEしたり。
ーーーーーうわ、それ見たいですね!!
RINO:いつの間にかキューバ側の切り札のカードみたくなってきて(笑)
中南米協会とかで開催するようなイベントとかになると、キューバ大使館側が出すアーティストとして、イベントの後半部分でLIVEをするようになってきて。
だんだんいいねって。いつかキューバ行こう!ってなってきて。
ーーーーー少しづつ信頼関係が結ばれていくんですね。
RINO:それこそ、*テルマリが日本にきた時も、前座じゃなくて、ジョイントコンサートにしようって大使館サイドから言ってもらえて。吉祥寺の“STAR PINE’S CAFE”とか”DUO”とかでもやらせてもらって。
でも、その当時、すごく仲良くしていたキューバ大使館側の人が体調を崩して帰国されてから、やりとりは自然に減っていったんだけどね。
*テルマリ=Telmary Diaz “Telmary”カナダを拠点に活動するキューバを代表するフィメールラッパー。アフロラテンビートに乗せてラップとジャズポエット的なスタイルで人気となる。
*STAR PINE’S CAFE=世紀末に出現した武蔵野の面影が残る吉祥寺 から最先端の情報を発信をコンセプトに営業しているLIVE BAR&CAFE
*DUO=DUO MUSIC EXCHANGE 渋谷にあるジャミロクワイのジェイ・ケイ氏がプロデュースした最高の音、最高のステージを追求したライブハウス
ーーーーーその後、実際キューバに行かれてLIVEもされてますね。「ヒップホップ・フェスティバル・シンポジウム」への参加、その辺りのお話おきかせください
RINO:1週間で5,6回.LIVEをやったかな。
ーーーーーその時はどういう状況でしたか?
RINO:あ~もうすべて謎!!
笑
RINO:連絡してもキューバタイムだから、2ヶ月前に連絡した内容も前日になっても答えが曖昧で(笑)
ターンテーブルもCDJもあるかわからないから、これちょっと危ないから、機材持って行こうってなって、*DJ HIRAKATSUを連れていったんだけど、アナログもCDJも両方持って行って、結局アナログでライヴ。
だからもう、すごい大変だったよ。
*DJ HIRAKATSU=数々のDJバトルで優勝。世界に名を轟かせるカリスマDJ
ーーーーーちなみにどこが主催だったのですか
RINO:キューバの音楽学校が主催だったんだよね。
ーーーーー音楽学校がHIPHOPアーティストを呼ぶ!キューバらしいですね。
RINO:中南米中からアーティストを呼んでいろんな音楽ライヴがあって。
その年は初めてUSからアーティストを呼んだみたいで。
その当時キューバには、アメリカからアーティストが来ることってほぼできないから、
ーーーーーなんだか歴史的瞬間に立ち会った感じですね
RINO:その時は、ポエトリーのアーティストが来ていて、その人は逆にアメリカに対してあまりいい感情を抱いていない人だった。
《ここ最近のキューバのHIPHOPシーンについて語るダーリンsaeko》
ーーーーーその頃のキューバのHIP HOPのシーンはどんな印象でしたか?
RINO:俺がいった時も、まだまだこれからだなって感じだったけど。
みんなターンテーブルは持ってないけど、HIPHOPやりたがっているっていう状態だった。
ーーーーーその時は、RINOさんのいつものスタイルでライヴをされたのですか
RINO:いつも通りプラスちょっとラテンテイストを取り入れて、俺の好きな*ファット・ジョーとかプエルト・リコの匂いがするようなアーティストのものを混ぜた感じで。
*ファット・ジョー=Fat Joe ニューヨーク出身のHIPHOP MC・音楽プロデューサーである。プエルトリコ系とキューバ系の血が入ったラティーノコミュニティーを代表するアーティスト
ーーーーー音楽活動をする中で、カリブ・ラテンな匂いがするものを率先して取り入れようみたいなことはありますか?
RINO:そうだね。もともとイタリアのラテンのルーツが少しは入っているのもあるのだけど。2003年頃、4年くらいジャマイカにものすごく入れ込んだ時期があって、7,8回行ったのかな。
毎回2週間以上滞在して、向こうでビートもらったりとか、録音したりとか、
なんだろう、カリブ海そのときちょっとわかちゃったというか(笑)
ーーーーーすでに2003年には、カリブとの所以があったのですね。
RINO:もう目をつぶればカリブいけるというか(笑)
なんていうの、これちょっと説明難しいな。
俺はいつもそうなんだけど、そこの土地には神様がいると思っていて、旅行とか行く前に先にメッセージを送るようにしてるんだよね。
「よろしくお願いします。ここでLIVEをします。」とかみたいな感じで。
特にLIVEがあるときは、リハーサル会場の周りを歩いたりとか。
やっぱりカリブ海って、俺は霊的なところがあると思う。
憑依とかね。でもやっぱり近代化で、その人たちが忘れてき初めてそうなものを、俺は霊的に生きてきたからね。逆におれは覚えていて。なんかそういうのを確認できた感じだった。
アジア圏もすごいいろいろ感じるものはあるんだけど。あっちはあっちでなんかね。
俺は、いろんな血が入ってるから、アイデンティティーとかルーツに対して、すごく小さい頃から悩んだり、深く考えるところがあって。
カリブとかに行くと
「突然、自分の意思じゃなく連れてこられた人たちは、この辺の島に降りたのか」みたいな
「海きれいでよかったな」とか。「さとうきび畑大変だったよな」とか。
(照れ笑い)
キューバは特に意識的に残してるじゃない。
そういう事も土地に行ってから、だんだんわかったことなんだけど。
ただただ、始めはラテンに興味があって。始めはブルーブラジルくらいから簡単に始まったんだけど、そこから背景を意識するようになっていって。
ーーーーーラップを始めた頃は、自分のルーツにあるラテンという意味でも、ラテンとか意識したりとかはあったのですか?
RINO:ラップは自分の表現方法で、自分を証明するものだと思ってたから。
自分がどこにいるかっていうのを伝えることができる手段だと思っていて、
その時に特にラテンとかそういうことは、意識してなかった。
でも最初から、向こうの(アメリカ)真似をするつもりはなかったから。
自分のオリジナルで、自分の言語で、海外のやつらみたいに、日本語でラップして影響力をだせないかなって考えてた。
逆のことをやって、”やっと対等!!”みたいなことに最初すごくこだわってやってた。
まあ、でも自分の中で歌うのが好きだったりするのは、ラテンの血だなって思う。
ーーーーーラテン音楽、カルチャー、などに触れたあとのラップスタイルに変化はあったのですか
RINO:キューバ音楽に触れて、キューバのアーティストと一緒にLIVEをしたことで思ったのは、
4、8、16っていう小節の区切りとか、ダンスだったらエイトで数えてみたいな
“じゃないじゃん”
22で4つおかしいことしてから、また4つ整えて始まっちゃうとか。
それまでのHIPHOPはもう慣れすぎちゃって、空気みたいっていうか、 目をつぶってもできちゃうくらいな感じで、DJが全力でタイミング合わせてボタン押して、”ダン”って入る!みたいなのがなくなっちゃてから、最初はそういうのがすげー怖かったけど、
そういうすごいドキドキ感がすごい新鮮な感じで、うまく入った時には、「あーやっと俺、大学院入れたっぽいみたいな」
ーーーーー笑 人肌感、人力感ありますね。
RINO:音楽の基本ていうか最初の作り方から、小節の取り方から、脅威だし、勉強になって。
だいたいみんな16小節でラップはするんだけど、もともと俺は、他のアーティストに比べると、わざと小節少なくしてサビに入ったり、ワンバースだけで曲にしたりとかやったりとかしてるんだけど、よりそういうことをチャレンジしたくなった。
ーーーーーへええええええ。面白い。
RINO:最初は全くわからなかった。
えっ!このタイミングでいいのかとか?思ったりしながら入ってみたり。なんとなくだけどループで漂いたい、そこの間でラップしたい、向こうも向こうで演奏というより、歌っているような演奏だったから、おれはそれがすごい心地よかったり。
ーーーーーRINOさんのその対応力、かなり天才的なんじゃないかと思うのですが。それは、RINOさんがやられているバンド活動など経たりした経験もあってのことなのか。バンド活動についても教えて欲しいのですが。まずいつ頃から始めたのですか?
RINO:90年代後半からことあるごとにV.I.Pバンドをお願いしたりとか。
ーーーーーターンテーブルからバンド活動へ広がっていったと思うのですが
RINO:進化と退化って常にくっついてくるもんね。
ーーーーー気持ちにどういう変化があったのですか?
RINO:伝えきりたかったんだろうね。
でもおれの親父がミュージシャンでどの楽器もすごくできる人で。
お前は向いてねえなって小さい頃言われていて。
ーーーーーお父様はミュージシャンだったんですね?ちなみに何の楽器を主にされていたのですか
RINO:歌が一番うまいけど楽器は全部できた。
だからLIVEも一人でやっちゃう。シンセサイザーとベースとギターとドラムマシーンを置いて。
ーーーーーRinoさんが音楽の道に進んだのはお父様の影響ってかなりあるとおもいますか?
RINO:あるよ。おれ、最初はやらないと思ってたけど、歌はだめなんだ、ギターもダメだしされたし。それでダンスやってたのかも。
ーーーーーそれってかなり子供の頃にお父様から言われた一言だったんですか
RINO:10歳くらいの頃には、ダメだって言われたから、俺ダメなんだって思ってた。
これだけ教えてもギターも弾けないし、歌もちょっと”ダメ”だなって。
ーーーーーそれって10歳の頃にしてはかなり衝撃的なでき事だったんじゃないですか
RINO:ショックだったよ。トラウマ。でも、その代わり俺が30歳くらいになった時にSingleとアルバムをだした時に親父が、”お前ここまでやったのか。もっと音楽の道を勧めればよかったな”っていう言葉で、俺的には昔あったものが流れていくっていうかね、清算されたところはあったけど。
ーーーーーお母様は音楽とかダンスとかは?
RINO:ダンスは好きだって言ってたけど、別に(笑)
ーーーーーお父様についてもう少し教えてください。
RINO:子どもの頃から神童でゴスペルで優勝してたりとか。
ーーーーーお父様の記録って何か残っているんですか?
RINO:写真とカセットテープが残ってるくらいかな。
何かデーターを移さなくちゃと思いながら。テープ切れちゃいそうで。まだ何もできてない。
ーーーーーそれは!!ぜひ!いつか蔵出しお願いします。音楽活動しながらこれはお父様の影響だと感じる部分ってありますか
RINO:あるよ。おれ結局LIVEが得意になったんだけど、親父に小さい頃から、
ずっと”お前は歌手にならないと思うけど、人生というステージに立ったら堂々とやれって”
流れる時間は一緒なんだから、そこを臆病にやるのと自信満々で失敗しても、”あーごめんごめん”くらいの気持ちでやりきっちゃうのと全然違う答えがでるよって。
俺の言葉にしちゃったけど、そういうことをずっと言われてた。
ステージに立ったら、ぶっ放せ!
なんかそういうのは覚えてる。他の事は、ろくなことは教えてもらわなかったけど(笑)
ーーーーーまた少しバンドについて話しを戻させていただきたいのですが、バンドの活動を本格的に始めたのはいつ頃なんですか
RINO:99年の新宿のリキッドルームで”夏祭り”っていうイベントがあって、それがはじめて40分くらい気合いを入れてライブをした時かな。40分で体力へとへとになっちゃって、バンド操りきれない未熟さに気づかされて。
まあ、会場は盛り上がるんだけど、熱狂的な時代だし。それで俺はかなり反省したりして勉強になって。そっからかな。
で、次はDJ YUZEがつくった“Port:scape“でJOSEIたちと、そこにいたTAKEちゃんっていうTと結局そのあとバンドを組みだして。その彼が日本でいいミュージシャンを次々繋げてくれて、
後レゲエのバンドともかなり一緒にセッションさせてもらった。
*STONED ROCKERS・channel linksからPort:scape=即興でのジャムセッションで RINO LATINAII、Maya Hatch などGuestに迎えて活動
*STONED ROCKERS=ヒロヒサ (BASS),ヨータ (Guitar),KENJI (DRUM),KEN(Keys),ケンタ(MPC)で構成された日本を代表するレゲエバンド
*CHANNEL LINKS BAND=日本を代表するダンスホール・レゲエバンド
ーーーーーバンドでアルバムとか、録音はされなかったんですか?
RINO:一番仲が良くて、コンビネーションを磨いたやつがいたんだけど、
レコードにまでにはいかなかったね。デモみたいなのは何個か作ったんだけど。
生で聞かせる出音はよかったんだけど、音源として再編するときに、迫力不足になっちゃって。一生懸命、スタジオとって、メンバーが俺のオリジナルビートを再現してくれたりするんだけど、LIVEではいいんだろうけど、いざ形にすると寂しいところがあって、結局あまり形にならなかった。
ーーーーー今後の音楽活動でチャレンジしたいことは?
RINO:キューバ大使館でお世話になったアンドレスさんが元気になった暁には、
プエルト・リコの”CALLE13”ていうグループ。あいつらと一緒にやったらいいよって。
俺ははあそこにRINOぶつけたいってい言ってくれてて。
いつかそういう風になったらいいなって思ってる。
*Calle 13=プエルト・リコ出身のラッパー、シンガーソングライターの René Pérez Joglar と歌手、ビート・プロデューサーのEduardo José Cabra Martínezの二人組によるオルタナティヴラップグループ。
ーーーーー中南米で活動することに対して興味をもっていらっしゃるんですね。嬉しいーーー
RINO:自分のパワーアップに繋がってるよ。
日本でどんなに回っても、もらえないものを、あっちでもらうみたいな。
ーーーーーアメリカの音楽とカリブの音楽ってLIVEをした時の感じ方は全然違いますか?
でも結局、盛り上がり方は一緒だと思った。
気持ちいいものは一緒。ただ、リアクションが早いね。
日本の場合は、溶ける時間がかかる。
あっちは、掴みよくいけば、ぽんぽんぽんっていける!
話早いよね。
ーーーーー最後になりましたが、3/3 JOSEサルサの日に期待したいこと、やってみたいことを教えてください♡
RINO:この時間だけはそこを本当にカリブ海にしたいよね(笑)
ーーーーー笑
RINO常温のハバナクラブの7年ものがあれば
ーーーーー笑
RINO:普段吸わないけど、その日だけはコイーバの葉巻で(笑)
ーーーーー用意しておきます!ちなみに、7年ものは、白と茶色どちらがお好きですか?
RINO:茶色!!(即答)
ーーーーー私のいつかの夢は♡RINOさん✖️SALSA BAND
RINOさんのピアノ弾き語りとかですかね。では当日よろしくお願いします。
本日は長いお時間ありがとうございました。
インタビュー:RINO LATINO ll
インタビュアー:ダーリン.SAEKO
協力:間所直哉
企画UWSTO
⭐️RINO LATINO ll
FUJI ROCK(’99)初の日本人ラッパーとしての出演や、伝説のユニットLAMP EYE、カミナリのメンバーとして活躍している『RINO LATINA II』(リノ・ラティーナ・ザ・セカンド)。
1993年にRINO、DJ YAS、GAMAと結成され今となっては伝説とも言えるユニットLAMP EYEを経てソロ・ワークを開始。 彼は、深遠なるアンビエントからハードエッジなビートまで、さまざまなサウンドをバックに、豊富なヴォキャブラリーで独創的な世界(リリック)を作り上げる。 最近では、10年の時を経て導かれるが如くRINOとDJ YASが再び新作を着手し『LAMP EYE FLAVA』(09年6月3日発売)をドロップした。
国内だけの活動に留まらず、2008年8月にはキューバ政府より公式の招待を受け、同国で15年の歴史を誇る「ヒップホップ・フェスティバル・シンポジウム」に日本人アーティスト代表として初参加するなど、国際的にも高い評価を得ている。
2010年には、テキーラが一晩で20本は空くとわれる恐るべき伝説のイベント「盃-SAKAZUKI-」を再始動。都内にとどまらず、北から南のあらゆる場所で豪華アーティストを迎え出張盃する傍らで、USの大物HIPHOPプロデューサーSKI BEATZがプロデュースした日米合作プロジェクト「24 HOUR KARATE SCHOOL JAPAN」の“24 BARS TO KILL”にANARCHY, RINO LATINA II, 漢, MACCHOで参加。
現在の日本語ラップを代表する4MCによる、この斬新で最強なマイクリレーは、日本語ラップ界に新たなる旋風を巻き起こした。 この“24 BARS TO KILL”のPVはすぐさま話題になり、Amebreak AWARDS 2010のBEST VIDEOSとして選ばれた。 また、同年11月、雷再結成と同時にシングル“2U”をBOOT STREET限定で500枚のみ販売。 誰もが納得するようなスキルの高さと型に嵌らない新たなスタイル、溢れ出る魅力で観衆を虜にするRINO LATINA II。
2011年はDJ KRUSH等のベテランDJやMCとの客演他、REGGAE EVENTへの参加も予定されている。 途轍もないRevolution Actionを見逃すな。